いくつかの出合いがあり、いくつかの別れがある。
繰り返される出会いと別れ。
この公園もまた、そんな舞台のひとつなのだろう。
真夜中の公園は相変わらずベンチが点滅している。いくつかの灯りが消え、いくつかの灯りが点く。ベンチに座る人、ベンチを立ち去る人。そんな光景が遠く彼方にまで繰り広げられています。わたしのベンチもまた、彼方からは点滅するベンチのひとつとして映るのでしょう。
出会いと別れは時系列に展開される。
出会いと別れは同時進行する。
時に交錯し絡み合う。
すべては流れのままに。
流れに逆らうことなく、身を任せるのがよろしい。
わたしには覚えがある。
眠りから目醒める時、
まどろみの中で、
夢の残像を楽しめることを。
そこは時間も空間も言葉さえも常軌を逸している。
夢だから、と捨て置けない一面もある。
まどろみの半覚半眠の中で、わたしは夢を夢と知覚し、コントロールする術も覚えた。
ただ、すべてを始めることはできないようだ。
始まったら、乗っかる。
そんなチャンスを期待しながら眠りを迎える。
まずは、すっかり眠ることが大切だろう。
身体を預けることだ。
あとは眠りがすべてを引き受けてくれる。
始めるのは誰?
わたしであって、わたしではない。
わたしはそのように構成されているようだ。
わたしの眠り人はわたし以上にわたしを知っているのかもしれない。
始めるのはそんな眠り人です。
それは、眠り人からのメッセージなのかもしれない。
眠りはとてもデリケートだ。
瞼を閉じたまま、瞼の裏側に現れる光景を静かに待つ。
その舞台は神聖なる深淵と呼べるものかもしれない。
わたしの意識がわたしの無意識と対話する。
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