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update:20250703-20250710

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純粋経験示現装置を求めて...再構築
告知 取材 随筆

20250703
私が最初にwebsiteを開設したのが1995年。
以来、いろいろなサーバを試しながらhtmlを手書きしてきた。最近では、個人の情報発信というと各種snsが重宝されている。そんな潮流から、私の視点も方々のsnsに分散している。
そんな分散したsns情報を俯瞰しながら、時系列に足跡を記録してみる。
純粋経験示現装置...を求めながら
https://36way.net/art-info-web/

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■告知
■取材
■随筆

20250710:彼方と心裡の交差点

わたしは、まっすぐな道を歩いていた

地平線のそのまた向こう
すべての線が吸い込まれる一点
無限遠点、と呼ぶらしい

歩いても、歩いても、届かない
その遠くにあるものは
いつしかわたしの瞳に染みつき
意識の奥へと沈んでいった

地面に、小さな影が揺れている
ラビットホール
うっかりと置かれた沈黙の落とし穴

覗きこむと、世界が反転した
上もなく、下もなく、時間もない
ただただ、意味のない言葉たちが
らせんを描いて舞っていた

落ちていく...

落ちていく...

わたしは...
無限遠点を見つめた瞳で
心裡の深みを漂っている

見覚えのある風景が広がった
かつて忘れた夢の残骸
知古の声、こわれた時計
一度も言えなかった言葉

穴の底に
もうひとつの無限遠点

すべてが始まる前に
わたしが置き忘れた
小さな光の点

わたしは今
外ではなく
内に向かって歩いている

無限遠点
終点ではなく はじまりの回廊だった


彼方と心裡の交差点|二坪の眼
https://note.com/nitsubonome/n/nfa252a9b92e0


20250710:シンクロの刻(とき)

無意識が静かに目を開ける
言葉にならなかった記憶の波紋

意識が名づけようとするたびに
時間はねじれ
昨日と明日が手を取りあって
踊り出す

交差点で出会う誰かのまなざし
落ちた葉の模様
夢で見た風景が
現実の窓に映り込む

偶然か?

「シンクロ」

無数の時間軸が
見えない糸で縫い合わされる
その刹那に
「わたし」は深く知られている

名づけられぬ一致
語られぬ符合
意識と無意識が
一つの呼吸で波を打つ

もはや「時」は存在しない

ただ、交差し
ただ、重なる
共鳴する鼓動だけが
静かに在る


シンクロの刻(とき)|二坪の眼
https://note.com/nitsubonome/n/n9cdac280137b


20250709:ダンテの瞬目

ダンテの瞬目

意識は眠りと目覚めを振幅する。
その波動が脳裡の扉を開く。

意識が拾い集める言の葉は、
彼方のものか、此方のものか。
雑ざりあっては消えていく。
記憶に留まらない異次元の波。
闇の中に浮かぶ光と影。
次第に輪郭が顕となる。
見えなかったものが浮かんで見えてくる。


ダンテの瞬目|二坪の眼
https://note.com/nitsubonome/n/nbdffba90307a


20250708:ケルン

  1. 石の塔
  2. 置いてゆくもの
  3. 巡り石

石の塔

靄(もや)の中、道はすっかり消えていた

山道を外れたわけではないはず
しかし、気がつくと立ち止まっていた
息が浅い
地図も読めず、コンパスも見えない
歩きながら考えていたことのせいかもしれない

辞めるべきか
このままか
誰のために、どこへ向かっているのか

どれも答えは出なかった
モヤモヤとした疑問を抱えながら登り続る
いつの間にか視界まで白く濁っていた

今、自分が立っている場所さえよくわからない

しゃがみ込み、ただ息を整える
寒さも感じなくなっていた

そのときだった

前方に、石が積まれているのが見えた
小さな山
いや、「ケルン」だ

見慣れたはずのそれが、
不意に異様な存在感でそこにあった
まるで、霧の中からこちらを見ていたかのように

立ち上がり、石の塔に近づく
誰かが丁寧に積み上げたものだった
きっと通った人が「ここが道だ」と、
未来の誰かに伝えるために置いていったのだろう

それだけのこと
なのに、心の奥がじわりと温かくなる

誰かがここを通った
誰かがこの先を見ていた
誰かが、確かに進んでいった

今まで自分を覆っていた霧のような迷いが
少しずつほどけていく

「答えを出さなくてもいいのかもしれない」

道は今もはっきりしない
けれど、ケルンがある
それは「誰か」が積んだものであり、
同時に「自分」が今、見ることを選んだものだ

それだけで、もう一歩、前に出る理由になった

ゆっくりと歩き出す
霧の中、かすかに次のケルンが見える

迷いの中にあっても
小さな石の塔が、確かに導いていた


置いてゆくもの

風が強くなってきた
雲が低く、足元の岩が湿って滑りやすくなっている
立ち止まった

ほんの少しだけ
この場所に、何かを残したかった

ポケットの中で、冷たい小石を握りしめる
拾ったのはずっと前、まだ森の中だった
特別な石ではない
ただ手のひらにしっくりくる、丸みを帯びたひとつ

「意味なんてないよね」と、つぶやいた
意味がないことが、どうしてこんなに必要と思えるのだろう

人はときに、自分が居たという痕跡を
世界のどこかに、そっと置いていきたくなる

消えていく一日
言葉にならなかった気持ち
誰にも届かなかった問いかけ
それでも、
自分はここを通ったのだという、
ただそれだけのこと

ほかの石の上にその小石をのせた
バランスをとりながら、ゆっくりと
崩れないように、けれど無理のない位置に

そこに意味を込めないようにしながら、
ほんのわずかな願いを忍ばせる

どうか...、
これを必要とする誰かが
この小さな石を目印にしてくれますように

祈りではなかった
でも、祈りに似ていた

また歩き出す
石を振り返らなかった

置いてゆくとは、
忘れることでも、
手放すことでもない

ただ、自分の内にあった重さを
少しだけ世界と分け合うこと

そしていつか、
見知らぬ誰かがその石を見つけたとき
その人が、自分自身の問いを
少しでも軽くしてくれたなら

それだけでいい


巡り石

あの日も、霧だった

初めての独り登山
人間関係に疲れ、
街から逃げるように電車を乗り継ぎ、
バスに揺られ、
名前も知らぬ山の中に立っていた

とにかく歩けば何かが変わると思っていた
けれど霧に包まれ、道を見失ったとき、
変わるどころか、すべてを見失ってしまった

泣くほどの理由もなかったはずなのに、
目の奥が熱く、身体の芯が空っぽだった

そんなとき、足元に見えた
ケルン
小さな石の山
人の気配はなかったが、確かに「誰か」が居た痕跡

何かに触れられたような気がして、
しゃがみこむ
じっとそのかたちを見つめた

それだけのことで、ふしぎと涙が止まった
誰かが居た
誰かがこの先を歩いた
この石が、答えではない
問いを抱えていいのだと思えた

以来、登山は習慣になった

日常へはゆっくりと戻っていった
人づきあいも、仕事も、
相変わらず思うようにはいかなかった
けれど、
山に行けば、言葉のいらない時間があった

そして、今

またひとりきり、
見晴らしのない場所に立っている
霧が濃い
風が冷たい
足元は確かだ
なぜなら、
自分の手に、ひとつの石があるから

静かに、
既にある石の山に乗せる
一度手を引っ込め、
もう一度、慎重に置きなおす
自分の想いが、過ぎてきた時間が、
この石に乗るように

「ありがとう」とは言わない
あの日救ってくれた誰かに、
今度は自分がバトンを渡す番だと思っている

この石を見つけた誰かが、
少しでも「進める」と思えたなら
それだけで、自分の道も報われる気がする

山は今日も、黙っている
ケルンだけが、ほんの少し、
世界の向きを示している

必要とされなくても積む
誰にも気づかれなくても積む
それによって誰かが
「自分のままでいていい」と思える瞬間がある


ケルン|二坪の眼
https://note.com/nitsubonome/n/n30f1e8bab8e8


20250707:純粋経験示現装置

置床|二坪の眼|note
https://note.com/nitsubonome/m/m585942deb4a2



20250706:installation 沈黙の配置

インスタレーション:沈黙の配置

私はただ
その部屋に入っただけだった

空気が違った
それは、湿度でも温度でもなく
密度だった

ひとつひとつの物体が
そこに在るというより
「在らされていた」

光も音も
配置されていた

その中に立った瞬間
私の呼吸のリズムが
何かの装置に組み込まれた


これは作品ではない
私の感覚そのものが
展示されている


目を凝らしても
全体像はつかめない
だが、すべての配置が
わたしの“無意識”を誘導している

床のきしみ、遠くの風音、吊られた線
崩れかけた記憶のかけらのような物体

気がつけば...
私はもう観てなどいない

“わたし”がこの空間によって
微細に編集されていた


インスタレーションは
私を展示するために
そこにあったのだ


・脱美術館、脱ギャラリー、脱ギョーカイ、於日常
https://note.com/nitsubonome/n/n1e48ed22d6fe?magazine_key=m23ef0ae5f29a


20250706:木製の文鎮

  1. 木製の文鎮
  2. 文鎮の記憶
  3. 文鎮の死
  4. 灰になった文鎮

木製の文鎮

わたしは文鎮
わたしが押さえるのは紙ではない
たぶん、揺らぐ思考の端
あるいは、言葉の呼吸

朝、光が斜めに差すと
詩人はわたしをそっと握る
体温がすこし、移る
今日という日のはじまりだった

鉛筆の音、ため息、湯気の立つカップ、
沈黙より深い沈黙
わたしはそれらのすべての中心にいた

ある日、言葉が降りなかった
詩人はためらいながら
わたしを裏返し、撫で、置き直した
それだけで、紙が静かになった

数日のあいだ、何も書かれず
わたしはただの塊に戻った
その重みのなかには
書かれなかったことばたちが
小さく眠っている

わたしは文鎮
なにも押さえてはいない
今もこの机の端で
言葉が戻ってくるのを
ずっと、待っている


文鎮の記憶

わたしは文鎮
名前のようで、意味のようで
ただの音でもある

最初に紙を押さえた日のことを覚えている
まだ乾かぬ墨の香り、筆の震え、手の迷い
その隣でわたしは動かなかった

動かないこと
それがわたしの務めとされた
わたしは揺れぬことに誇りを持ち
風にも、言葉にも、逆らわなかった

時々、わたしは思
なぜ?押さえる必要があったのかと

紙は飛んでいけばよかった
言葉も流れていけばよかった
そうすれば
詩人はもっと自由になれたかもしれない

押さえてほしいと紙が言ったのか
逃げない言葉を詩人が願ったのか
わたしにはわからない

誰もいなくなった机のうえで
白い一枚の紙の端に
わたしはそっと、重みを置く

押さえるためではなく
残された沈黙が
風にさらわれぬように


文鎮の死

乾いたひびがわたしに走った
それは木の痛みではなく
時間の爪あとだった

押さえるべき紙はもうなく
詩人の椅子も空のまま
陽が傾くたびに埃が光り
わたしはそこに在った

何もせず、何も求めず
ただ、重みの記憶だけで

ある日、
ひとの手がわたしを持ち上げた
「これはもう、使わないね」と
知らない声が呟いた

木箱に入れられ
どこかへ運ばれる途中
わたしはふと思った

役目を失うことは死なのだろうか
それとも
かつての自分が別の名に変わるだけなのか

小さな燃える音がした
木の香りが、一瞬、広がった
あれは森の匂いだった

わたしは静かにカタチを手放した
重さも、名も、忘れ去られることを
静かに受け入れた

最後に、ひとつだけ確かだったのは
押さえていた紙が
風に舞っていたということ

それで よかったのだ


灰になった文鎮

燃え尽きたわたしに
カタチはもうなかった

風がひとすじ
灰のなかを撫でたとき
何かが微かに光った

音ではない
意味でもない
触れたものの奥で
ふと立ち上がるざわめき

わたしが木であったころの光でもなく
詩人に触れられていた頃の温もりでもなく

もっと遠く
言葉がまだ
言葉でなかった頃の気配

ある夜
子どもが床に落ちた灰を拾い
掌に乗せた

ふいに口を開き
知らぬことばをひとつ
つぶやいた

その言葉がどこから来たのか
誰も知らない

わたしは、その響きの中に
自分の名残を聴いた

名もなく、カタチもなく
それでも確かに
あの静けさがまだ在ると知った


20250705:脱美術館、脱ギャラリー、脱ギョーカイ、於日常

脱美術館、脱ギャラリー、脱ギョーカイ、於日常

作家は問いを置く
置かれた問いは何も問わない
鑑賞者は自らの問いを持ち帰る

問いの本質の響きは個別に異なる

作家の問いと
鑑賞者の問い
その交差点に
関係性の美学

問いを持ち帰る機会
相互理解の資質を養う場
尽きない問いの連鎖

果たして
その交差点が成立し得る場とは?
それは必ずしも
展覧会場だけとは限らない
ただ
問いの本質を識るという
前提条件が満たされる必要がある

評論家(ギョーカイ)の権威なんてモノは
ゴロゴロある問いのカケラでしかない

揺れましたか?
純粋経験示現装置


20250704:「ココ。」2025 - 劇団サラダ 30周年記念 第30回公演 -

作・演出:棚橋 真典 (Wikipedia
https://suyamapro.co.jp/profile/profile-70/

前略
皆、元気で暮らしておりますか。私たちは、ココにおります。

太平洋戦争末期 南方のとある島。
突如現れた米軍の上陸により島は大混乱に陥った。
日本軍は圧倒的な物量を誇る米軍を前に敗退。
しかし・・・
自給自戦、永久抗戦
生きて虜囚の辱めを受けず
即ち、降伏は許さじ。
深い密林に身を潜め抵抗を続ける日本軍。
戦争という時代の混沌があらゆる人々を翻弄し
出口の無い辛苦の逃避行へと追い込んでいく。
そして彼らはココで出会い
それでも彼らは
ココで必死に生きた。


劇団サラダ30周年記念公演『ココ。二〇二五』
チケット予約 - トロクレチケット
https://trkr.jp/ticket?p=salad_koko&a=shinako

2025年9月
12日(金)19時
13日(土)15時 19時
14日(日)13時 17時
※開場は開演の30分前

日時指定:自由席
公演協力金:2000円


10年の時を経て
今、改めてお届けする
劇団サラダ、渾身の一作!
『本当に伝えたいのは
「戦争」ではありません...。』

会場:名古屋市青少年交流プラザ(ユースクエア プレイルーム)
交通:地下鉄 名城公園駅から北東に500m


20250704:早瀬直久 ワンマンSHOW(7538LIVE THE10th)

7538LIVE THE10th
早瀬直久 ワンマンSHOW
https://www.instagram.com/hayase_naoki/
https://lit.link/hayasenaoki
2025.8.10(日)
open:18時
play:19時
¥4000+1drink

一宮市 酔喰 なごみ屋
https://www.instagram.com/p/DLh6nh3Tzfi/
https://www.instagram.com/nagomiyaekinishi/
※予約はDMにて受付中


20250703:純粋経験示現装置とは?

「純粋経験示現装置」は私の造語です。思うところあって、私は「アート」という語彙の代替語として「純粋経験示現装置」を当てはめています。この造語をAIに投げてみました。字面を分解、分析してくるようです。

■chatgpt https://chatgpt.com/

「純粋経験示現装置(じゅんすいけいけん・じげんそうち)」という語は、あなたの造語か詩的発明と思われます。言葉としてとても魅力的で、哲学・芸術・認識論の交差点にあるような響きを持っています。以下に、この語をめぐる考察を試みます。

◉ 分解と言語的分析

● 純粋経験
西田幾多郎の哲学からの引用で、認識主体と対象が分かれる前の「あるがままの経験」
→ 判断・概念・意味づけが介入する前の、感覚と存在が未分化な経験領域。

● 示現
「示す」と「現す」。
仏教用語でもあり、仏が現世に姿を現すこと(※「応現」や「権現」にも通じる)。
→ 内奥のものが外に現れ出る行為・現象。

● 装置
「機械」や「構造」、または「制度」や「環境」を含意。
→ 人工的に設計された何か。技術的・芸術的・思考的な道具や仕掛け。

◉ 「純粋経験示現装置」とは?
定義的な試み:
「純粋経験示現装置」とは、
主体と対象が分離する以前の未分化な経験を、現実空間や認識の中に“あらわす”ための装置。
それは、感じる以前の感覚、考える以前の思考、名付ける前の世界を垣間見せるための媒介機関。

◉ 例示(詩・芸術・装置)
アート作品
光と音のみで構成され、意味づけを拒むインスタレーション。
鑑賞者の五感に訴え、「ただ在る」ことを体験させる場。
詩的構造
意味が崩れ、余白や語感だけが残る詩。
読者に解釈を委ねず、ただ響く“ことばの音”。
身体的儀式
舞踏や茶道のように、形式の中で非意味的な感覚を呼び覚ます所作。
→ 経験の純粋性が、型によって逆説的に開かれる。

◉ 哲学的含意
「装置」は、再び純粋経験へアクセスするための媒介。
つまり、「純粋経験」は本来装置など不要のはずだが、現代の人間がそこへ戻るには、むしろ装置が必要になってしまっているという逆説。
経験の源泉を示現するには、「媒介なき媒介」が必要。
アート・詩・身体・空間、それらが装置化する。

◉ 詩的表現(試作)
名もなき風の通り道に
きみの眼差しがあらわれる
それは言葉よりも前の出来事
装置はただ、沈黙を抱いて開く
呼吸が揺れたとき
純粋経験が、そこに示現される


■Gemini https://gemini.google.com/

純粋経験示現装置 (Junzui Keiken Jigen Souchi)

「純粋経験示現装置」という言葉は、直訳すると**「Pure Experience Manifestation Device」**となります。この言葉自体は、一般的な日本語において広く認知されている科学的または哲学的な専門用語ではありません。しかし、その構成要素を分解することで、どのような意味合いを持つ可能性があるのか、またどこからこのような概念が生まれるのかを深く理解できます。

構成要素の分析
純粋 (じゅんすい): 混じりけのない、本物の、真の。
経験 (けいけん): 実際に体験すること、経験すること。
示現 (じげん): 現れ示すこと、出現させること、実現させること。
装置 (そうち): 器具、機器、メカニズム。

考えられる意味合い
これらの要素から、「純粋経験示現装置」は、以下のような仮説的または概念的な装置を指すと推測できます。
「純粋な」経験の生成または誘発:
これは、外部からの偏見、先入観、あるいは通常の心のフィルター機能から解放された経験を意味するかもしれません。現実や特定の存在状態に直接的かつ媒介なしで遭遇することを目指す可能性があります。
内的状態の外的現実としての顕現:
思考、感情、記憶といった主観的な内的経験を、具体的または知覚可能な形で外部に表出させる装置である可能性も考えられます。
哲学的意味での「純粋経験」の実現を促進:
西田幾多郎の京都学派に代表される日本の哲学思想において、「純粋経験」とは、意識が主体と客体を区別する前の、未分化で直接的な統一状態を指します。この文脈における「純粋経験示現装置」は、個人がこの純粋経験の状態を達成または認識するのを助けるものかもしれません。

この言葉に出会う可能性のある場面
これは標準的な用語ではないため、「純粋経験示現装置」という言葉に出会った場合、それは以下のような文脈である可能性が高いです。
SF(サイエンス・フィクション)やファンタジー作品:
認識を変えたり、仮想現実を創造したり、意識の性質を探求したりする上で、このような装置が物語の中心的な役割を果たす小説、アニメ、漫画、ビデオゲームなどに登場するかもしれません。
哲学的または精神的な思索:
特に東洋思想の影響を受けた文脈で、意識、現実、自己の性質を探求する哲学的なテキストや議論の中で、この言葉が造語として使われることがあります。
芸術的または概念的なプロジェクト:
アーティストやコンセプチュアル・デザイナーが、インスタレーションや思考実験の一部として、このような装置を考案する可能性もあります。
これ以上の文脈がなければ、その正確な意図を特定することは難しいですが、その意味するところは、知覚と経験の根源的なレベルと相互作用するか、それを生成する装置であるという解釈に強く傾きます。


20250703:art-info-web を開設

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